線香番
祖父の通夜は、実家の座敷でやった。
今どき自宅で通夜をする家は少ない。だがうちの田舎では、まだそれが普通だった。そして、うちの地方には「線香番」の習わしがあった。通夜の晩、棺の傍で夜通し線香を絶やさない役だ。
親戚が集まった台所で、番の割り振りが決まった。前半の夜十時から二時が伯父。後半の二時から明け方が、二十六歳の俺。若いもんは朝に強いから、という理屈だった。
寝ずの番の心得を、大叔母が教えてくれた。線香は一本ずつ。前の一本が燃え尽きる前に、次を継ぐ。それから、大叔母は声を落とした。
「夜中にな、誰か来ても、玄関を開けたらいかんよ」
「弔問客ですか? こんな夜中に?」
「人なら、ええのよ。人なら、玄関の前で名乗るから。名乗らんのが、来ることがある。とんとん、と叩くだけのが。それはな、仏さんの匂いを嗅ぎつけて来るもんでな。線香はな、あれの目隠しなんよ。煙が立っとる間は、家の中が見えん。──だから、絶やしたらいかん」
午前二時、俺は伯父と交代した。
伯父は疲れた顔で、妙な引き継ぎをした。
「十二時過ぎに、一回来た」
「……何がですか」
「分からん。玄関を、とんとん、て。名乗らんかった。無視しとったら、しばらくして、玄関から離れてな。家の周りを、ゆーっくり一周して、帰った。砂利の音でわかった。……お前も、来ても出るなよ。それとな」
伯父は、祭壇の線香を目で指した。
「一周する間な、線香の煙が、まっすぐ立たんかった。誰かが探すみたいに、右に左に、揺れとった。窓は全部閉まっとるのにな。煙が揺れとる間は、あれが『見よう』としとる間じゃと思う。揺れたら、すぐ二本目を足せ。煙は濃いほうがええ」
伯父が寝てしまうと、家は静かになった。祖父の顔に掛かった白布。蝋燭の火。線香の細い煙が、天井へまっすぐ立ちのぼっていた。
三時十分。俺はうとうとしかけて、はっとした。
線香が短くなっていた。急いで次の一本に火を移した。そのとき気づいた。今の居眠りは何分だった? 線香はあとどれくらい残っていた? 途切れてはいなかったか?
答えるように、玄関の戸が、とん、とん、と鳴った。
俺は座敷で凍りついた。名乗りはなかった。とん、とん。もう一度。それから砂利を踏む音が、ゆっくりと家の側面へ回り始めた。伯父の言ったとおりだ。雨戸の外を音が這うように移動していく。座敷の、ちょうど祭壇の裏あたりで止まった。
線香の煙が、ゆらり、と祭壇の裏のほうへ傾いた。
俺は震える手で線香を二本、三本と足した。煙が濃く太くなる。すると雨戸の外で、す、す、と何かが板を撫でる音がした。苛立っているような、惜しがっているような。やがて音はまた移動を始め──止まらずに二周目に入った。
二周目は、少し速かった。三周目は、もっと速かった。
そして四周目の途中、音は、ふっつり消えた。帰ったのではない。消え方が、違った。歩き終わらずに、途中で「いなくなった」のだ。
直後、家の中で、音がした。
みし、と。廊下の、いちばん奥の板が。
座敷の障子の向こうは、短い廊下だ。突き当たりが仏間、手前が台所。みし、みし、と音は、ゆっくり近づいてきた。
俺は線香の束をあるだけ火にくべた。煙が渦を巻いて座敷に満ちた。目が痛かった。煙の向こうで障子に影が差した。人の形の、しかし人にしては縦に長すぎる影が、障子一枚の向こうに立った。
影は障子を開けなかった。代わりに囁いた。低い、砂のこぼれるような声だった。
「けむたい なあ」
俺は動けない。声は続けた。
「けむとうて、なんも みえん。……のう、番の人。ちいと、窓を あけてくれんか。ひとめ でええんじゃ。しろい ふとんの ひとの かおを、ひとめ みたら、かえるけえ」
丁寧で憐れっぽい声だった。断れば祟りそうな、開ければ終わりそうな。俺は大叔母の言葉に縋った。人なら名乗る。名乗らないものと話してはいけない。返事もたぶん、してはいけない。
俺は返事の代わりに、りんを、ちーん、と一つ鳴らした。
影が、びくりと縮んだ。
「……それは、ずるかろう」
声に初めて感情が乗った。りんの音が嫌いらしい。俺は無我夢中で、ちーん、ちーん、と鳴らし続けた。影は障子の向こうで、ざり、ざり、と後ずさり、廊下の奥へ遠のいて消えた。
気がつくと、障子の外が薄青かった。一番鶏の声がして、台所で大叔母の起きる音がした。俺は線香の灰だらけの祭壇の前で、りんの棒を握りしめたまま泣いていたらしい。覚えていない。
朝、大叔母は座敷を一目見て、全部を察した。そして、りんの棒を握ったままの俺の手を、両手で包んで言った。
「ようやった。ようやった。……けどな、坊。ひとつだけ、教えとかにゃならん。あれはな、いっぺん家の中に入ったからには、手ぶらでは帰らんのよ。仏さんの顔が見られんかったら、代わりに、番の人の顔を覚えて帰る。──あんた、ゆうべ、煙の中で、あれと向かい合うとったろう。障子越しでも、向こうからは、見えとるんよ」
葬式は無事に済んだ。祖父は骨になり、俺は東京に戻った。
七年が経つ。何もない。ただ、ひとつだけ、あの晩から続いていることがある。
身内の誰かが死ぬ少し前に、俺の部屋の玄関が、とん、とん、と鳴るのだ。祖母のときも、大叔母のときも鳴った。誰もいない。名乗りもない。ただ二回、とん、とん。数日すると訃報が届く。
あれは俺の顔を覚えて帰った。そして律儀にも「次」の前には挨拶に来るのだ。おまえの家の匂いは知っているぞ、と言うように。
先週の火曜の深夜、玄関が鳴った。とん、とん。
俺は布団の中で身構えた。誰だろう。父か、母か、伯父か。覚悟のような、諦めのような数日を過ごした。だが一週間経っても訃報は来ない。親族は皆、変わりない。
安堵しかけた昨夜、また鳴った。とん、とん。
そして今夜、三度目がさっき鳴った。初めてのことだ。三晩続けて鳴ったことなどない。俺は今、玄関の見える位置で、これを書いている。祖父の家から持ってきた、あのりんを膝の上に置いて。
たったいま気づいてしまったのだが──あれが挨拶に来るのは「身内の誰かが死ぬ前」だと、俺はずっと思ってきた。だが俺は、あれに顔を覚えられた本人だ。本人の番のときは、挨拶は何回になるのだろう。玄関の向こうで、砂利を踏むような音がしている。うちはマンションの七階で、廊下に砂利はない。