三分怪談

3分で読めるホラー掌編

長編 第二話 — 読了目安 約20分

八月の来客

大学三年の夏、金に困って住み込みのバイトを探した。

求人サイトの隅にあったのが、日本海側の小さな民宿だった。「八月のみ・住み込み・まかない付き・時給高め」。電話をすると女将らしき人が出て、こう聞かれた。

「あなた、耳はいいほう?」

接客業だから耳が遠いと困る、という意味だと思って「いいほうです」と答えた。女将は少し黙ってから「じゃあ、慣れるまで耳栓を貸しますね」と言った。妙な返しだと思ったが時給に釣られて深く考えなかった。

民宿は海水浴場から一本外れた入り江にあった。母屋と、渡り廊下で繋がった離れがひとつ。従業員は女将と調理場の親方と通いのパートのおばさん、それにあたし。客は海水浴の家族連れが中心で、仕事は布団上げと配膳と皿洗い。きつかったがまかないの魚はうまかった。

初日に女将から決まりを三つ言い渡された。

「一、離れには近づかない。掃除もしなくていい。二、夜中に調理場で音がしても、見に行かない。三、もし廊下で『お客さん』に会って何か頼まれても、返事をしないで、私を呼ぶ。──夜中に会うお客さんは、うちのお客さんじゃないから」

三つ目の言い方だけ明らかに他と違った。あたしが黙っていると、女将は笑って「まあ、会わない年のほうが多いから」と付け足した。

最初の二週間は何もなかった。

気になることといえば、夜の営みがひとつ。毎晩、夕食の片付けが終わったあと、女将が小さな膳をひとつ自分で用意するのだ。飯と汁と焼き魚と、猪口に酒を一杯。それを盆に載せて渡り廊下の奥──離れへ持っていく。朝には空になった膳が調理場の隅に戻っている。

離れに誰か住んでいるのか、と親方に聞いたことがある。親方は包丁を研ぎながら「昔はな」とだけ言った。

八月も半ばを過ぎた客の少ない平日の晩だった。あたしは夜中に喉が渇いて階段を下りた。調理場から音がしていた。

かちゃ、かちゃ、と食器の触れる音。誰かが食事をしている音だった。

決まりの二を思い出して、あたしは足を止めた。見に行かない。分かっていた。でも調理場の引き戸は廊下に面していて、上半分が磨りガラスになっている。廊下を通るだけで嫌でも視界に入るのだ。

磨りガラスの向こうに人影が座っていた。

調理場の作業台に向かって背中を丸めて、一心に何かを食べている。輪郭が妙だった。頭が濡れているように、てらてらと光って見えた。かちゃ、かちゃ。ずず、と汁を啜る音。それから影は食べながら、小さく歌うように呟き始めた。

「うまいなあ。……うまいなあ。おかは、めしが、うまいなあ」

あたしは忍び足で階段を戻り、朝まで布団をかぶっていた。

翌朝、調理場の隅に、あの膳が戻っていた。いつもどおり空だった。ただその日は膳の横に女将が難しい顔で立っていた。膳の上にあたしの湯呑みが載っていたからだ。昨夜、あたしが水を飲もうとして、結局持って下りたまま廊下に置き忘れた湯呑み。それがきれいに洗われて、伏せて、膳に載せられていた。

「……あなた、ゆうべ、下りたね」

女将はあたしを叱らなかった。代わりに湯呑みを新聞紙に包んで、塩と一緒に木箱にしまった。そして言った。

「これはもう、あなたの湯呑みじゃなくなったから。新しいのを出すね。……洗って返してくれたでしょう。あれはね、『気に入った』ってこと。器を気に入られるくらいなら、いいの。器で済んでるうちは」

十六日の晩のことは一生忘れないと思う。

送り盆のその日、宿は休みだった。客を入れないのだ、毎年。夕方から女将と親方は離れの雨戸を開け、畳を拭き、床の間に膳を三つ並べた。いつもの膳よりずっと立派だった。尾頭付きに、赤飯に、酒が一升。

「今夜だけは、部屋に居なさい。何が聞こえても、朝まで出ない。トイレも我慢しなさい」

女将にそう言われ例の耳栓を渡された。

夜十時ごろ、始まった。

耳栓越しにも聞こえた。海のほうから、ざぶ、……ざぶ、……と大きなものが波を分けて歩いてくる音。ひとつではない。みっつ。それが庭を横切り離れに上がる。みしり、みしりと床が鳴る。そして宴が始まった。

かちゃかちゃという食器の音。酒を注ぐ音。笑い声のようなもの。歌のようなもの。言葉はほとんど聞き取れなかった。ただ一度だけ、ふすまの震えるような太い声がはっきりとこう言うのが聞こえた。

「ことしも、よばれた なあ」

宴は明け方の四時ごろ、潮が引くように静かになった。ざぶ、ざぶ、と波を分ける音が三つ、海へ帰っていった。

朝、離れの膳は三つとも空になっていた。畳には乾いた砂と小さな海藻が点々と落ちていた。女将と親方はそれを黙々と掃き清めた。手伝いながら、あたしはとうとう聞いた。あれは何なんですか、と。

女将は手を止めずに静かに答えた。

「昔ね、この浜で、遭難があったの。うちの先々代が漁に出て、時化で三人死んだ。先々代だけが帰ってきた。──それからよ。盆になると、三人が『よばれに』来るの。最初の年、先々代が怖がって戸を閉めきったら、翌年の漁で、また三人死んだ。数を合わせに来たのよ。それから、うちは膳を出すことにした。膳を出せば、獲っていかない。もう七十年、この入り江から水死人は出てない」

「……それって、いつまで続けるんですか」

「先方が、忘れてくれるまで。でもね」と女将は笑った。「毎年『ことしも』って言うのよ。あれは忘れない。海は忘れないの」

バイト最終日、女将は給料の他に小さな包みをくれた。清めの塩と、あの湯呑みの欠片がひとつ入っていた。

「割って、分けておいたから。器ごと向こうに『持って』いかれないようにね。……あなた、気に入られたから。海の近くにはもう住まないほうがいい。それと、これから一生、盆の晩にお膳の音を聞いても、絶対に、覗かないこと」

今、あたしは内陸の県に住んでいる。海までは車で二時間の町だ。

それでも去年の八月十六日の晩、うちの台所で、かちゃ、かちゃ、と食器の音がした。朝、水切りかごのあたしの茶碗と箸が、洗った覚えのないのに、きれいに洗われて伏せてあった。──二時間の距離を、あれは「近く」と数えているらしい。今年から、盆には膳を出すことにした。