三分怪談

3分で読めるホラー掌編

長編 第三話 — 読了目安 約20分

黙の祭

大学院で民俗学をやっていた頃、指導教官の紹介である山村の祭りを調査に行った。

「黙(もだ)の祭」という。文献にほとんど記録がない。分かっているのは旧暦の九月の晦日の夜に行われること。そして祭りの間、村人は一言も口をきかないこと。それだけだった。

同行は同じ研究室の矢代という後輩。録音機材とこちらの世界の常識を、ふたつとも山ほど担いでいった。

村はバスの終点からさらに徒歩二時間の谷にあった。世帯数十七。受け入れてくれた区長の老人は私たちを座敷に通すと、開口一番こう言った。

「調べるのは構わん。書くのも構わん。ただし、当夜は決まりを守ってもらう。日没から夜明けまで、声を出すな。囁きも、咳払いも、あくびもだ。どうしてもの時は、これを嚙め」

差し出されたのは布を巻いた小さな木の棒だった。使い込まれて歯形で凹んでいた。

「昔は、赤ん坊のいる家は、当夜だけ赤ん坊に酒を舐めさせて眠らせた。今は皆、麓の親戚に預ける。それくらいの決まりだと思ってくれ」

矢代が学生らしい質問をした。声を出すとどうなるんですか。

区長は怒らなかった。ただ湯呑みを置いて、しばらく庭を見てから言った。

「呼ばれたことになる」

祭りの日、日没前に村は一度だけ賑やかになった。

各家が競うように戸口へ膳を出し、ご馳走を並べ、酒を供える。そして日が落ちる直前、区長が村の中央の火の見櫓で半鐘をゆっくり七つ打った。それが合図だった。

村から音が消えた。

すべての家が明かりを消し、村人は雨戸の内側に座った。私と矢代は区長の家の座敷で、録音機を回しながら息を殺していた。

九時を過ぎた頃、それは来た。

村の入り口のほうから、ざく、ざく、と砂利を踏む音。ひとりぶんではない。十、二十──もっとだ。行列だった。足音の合間に木の車輪の軋む音と、何か重いものを引きずる音が混ざる。

行列は家々の前で止まっては進んだ。止まるたび、戸口の膳のあたりからくちゃくちゃと、ものを食う音がした。器の割れる音も。そしてそのたびに「声」がした。

「――おるか」

と、その声は戸口ごとに言うのだった。しわがれた、それでいて奇妙に通る声で。

「おるか。おるなら、こえを、きかせえ」

誰も答えない。村じゅうが息すら殺している。すると声は少し待ってから、満足したのか諦めたのか、「おらんか」と呟いて次の家へ移る。

それが区長の家の前にも来た。

雨戸一枚を隔てた向こうで膳を食う音がした。ずいぶん長く食っていた。それから声がした。

「おるか」

私は木の棒を嚙んだ。膝の上で拳が汗で滑った。

「おるか。……ふたり、あたらしい においが するな」

心臓が止まるかと思った。私たちのことだ。隣で矢代の喉が、ひゅ、と鳴りかけ、彼は両手で自分の口を塞いだ。

声は雨戸のすぐ向こうで長いこと待っていた。やがて、ずるり、と何かを引きずり直す音がして、こう言った。

「まあ、よい。こえを だしたら、また くる」

行列は夜明け前に山の上のほうへ帰っていった。半鐘がまた七つ鳴って村に朝が来た。

帰りのバスの中で矢代と録音を確認した。

入っていなかった。足音も、車輪も、あの声も。八時間ぶんの録音には虫の音と私たちの呼吸と、時折、私が木の棒を嚙み直す音だけが入っていた。

「マイクには乗らないんですね……」

矢代はがっかりしていた。研究者として私も落胆すべきだった。だが正直、ほっとしていた。あれは記録してはいけない類のものだ。肌でそう分かっていた。

論文は当たり障りのない範囲でまとめた。「発声を禁忌とする夜間の来訪神行事」。査読者のひとりから「事例として興味深いが、来訪神の実在を前提とするような記述が散見される」と皮肉られた。直せる箇所は直した。直せない箇所は削った。

ここまでなら民俗学徒の忘れがたい思い出で済む。

済まなかったのは矢代だ。

調査から半年後、研究室の飲み会で矢代が例の話を披露した。酒が入っていた。彼は身振り手振りであの晩を再現してみせた。そして、よせばいいのに、あの声の真似をした。

「おるかー、おるならこえをきかせえー、って。いやあ、あれはビビりましたよ」

座は笑いに包まれた。私は笑えなかった。声を出したら、また来る。あの言葉が契約のように耳に残っていたからだ。あれは「祭りの晩に声を出したら」という意味だとずっと思っていた。だが思い返せば、あれはそんな限定をしていなかった。

矢代はその夜、終電で帰った。翌朝から大学に来なくなった。

アパートを訪ねると矢代はいた。生きていた。ただ玄関を細く開けた彼は、ひどい顔色で囁き声でこう言った。

「先輩、すみません、今、声が出せないんです。……夜になると、来るんですよ。アパートの外廊下に。ざく、ざく、って。それで、ドアの前で言うんです。『おるか』って。返事しなきゃ、朝には帰るんです。だから僕、夜は一言も喋らないことにしてて。でも先輩、あいつ、毎晩ちょっとずつ、聞き方がうまくなるんです。おとといは宅配便の真似をしました。昨日は、母の声でした」

私は彼を連れて、あの村の区長を訪ねた。区長は矢代を一目見てすべて察したようだった。深いため息をついて、こう言った。

「祭りの外で声色を返した者は、初めてじゃ。……ひとつだけ、手がある。今年の祭りに、もういちど来なさい。当夜、あれが『おるか』と聞いたとき──家の中の全員で、一斉に雨戸を開けて、あれの顔を見てやりなさい」

「見て、いいんですか」

「見られるのが、いちばん嫌いなんじゃ、あれは。だから村はずっと、聞こえんふり、おらんふりをしてきた。見てしまえば、あれは恥じて、二度とその者の前には出てこられん。ただし」

区長は私と矢代を等分に見て言った。

「見た者は、あれの顔を、一生、誰にも話せん。話そうとすると──分かるな? 声を出すことになるからの。あれの話を、あれに聞かれる」

その年の祭りで矢代は雨戸を開けた。私は開けなかった。だから私はあれの顔を知らない。

矢代は今、地方の資料館で元気に働いている。夜も普通に眠れるそうだ。ただあの晩のことだけは二度と口にしない。一度だけ、酒の席で誰かがしつこく聞いたとき、矢代は静かに首を振って、紙ナプキンにボールペンでこう書いた。

「見ないほうがいい顔でした。でも、いちばん怖かったのはそこじゃない。雨戸を開けた瞬間、あれ、こっちに背中を向けて隠れようとしたんです。その背中に、見覚えがありました」

誰の背中だったのか、矢代は書かなかった。ただそのとき彼がちらりと私を見たのを、私は見てしまった。

以来、私は夜中に自分の家の廊下を歩くとき、決して後ろを振り返らない。あれの正体を知る方法がこの世にひとつだけある気がして──それは夜の廊下で振り向いて、自分の背中を見ることだ、という気がしてならないのだ。